第8話 南米で抱いた夢【part2】

【アルゼンチン・ブエノスアイレス】

 リマからアビアンカ・コロンビア航空でブエノスアイレスに向かった。添乗員によるとブエノス(よい)アイレス(空気)は“良い空気”の意味だという。

 翌日、市内観光。“南米のパリ”と言われるだけあって、メイン・ストリートの幅は100m位あり、両側には1つ1つ異なった美しい高い建物が並んでいた。当時の東京の銀座より整然としていた。ただ、建築中の建物は一軒もなく、アルゼンチンの財政難を示していた。

 現地の日本人の案内人によると、アルゼンチンは極度の財政難に落ち入っているという。政府内では、ときたまクーデターが起こり、要人の2、3人が殺害されるが、一般市民は“慣れっこ”になっていて、我、関せずと平常の生活をしているという。案内人は私たちが医者であることを知って、「アルゼンチンでは医科大学に入学するのは、容易です。入学生を卒業生の2倍くらい採用するのです。そのため、卒業がなかなかできません。3、4年落第した学生は、あきらめて、タクシーの運転手や労働者になる人が多いですね。この点、日本とは大違いです。しかし、卒業して医者になった人たちは裕福な暮らしをしています。」と話してくれた。

【アルゼンチンタンゴ発祥の地・カミニート】

市内観光のうちで最も興味をそそられたのは、アルゼンチンタンゴ発祥の地、カミニートであった。原色の赤、青、黄、グレー、ピンク、ブルーなど色とりどりの小さな家々が並び、無名のアーチストたちが自分の作品を展示し、街を華やかに盛り上げていた。市の南東にあり、昔、港街として栄えた地区だという。現地の案内人によると、昔、新天地を求めて,この地にきた移民たちがひしめきあい、雑然とした港街であった。荒くれた男たちが男同士で酒場の中で荒々しく踊ったのがタンゴの始まりで、次第に娼婦相手に踊るようになり、男女で踊るタンゴの原型ができたのだと言う。当時、新聞などでは下品な踊りだと揶揄されたが、下層階級を中心に日増しに人気を得たのだという。トタンでできた2〜3階のカラフルな建物は、イタリア系移民の文化の名残で、今でもレストラン、土産物屋として営業している。何しろ、どくどくしいまでの色とりどりの建物だが、この土地にはお似合いで、何か深く印象に残る光景であった。

 【アルゼンチンタンゴ】

 夜11時過ぎに、タンゴを演奏する薄暗い小さな店に入った。どの店も開店は午後11時ころだという。バンドネオンの、あの独特の歯切れの良いリズムの演奏は、すでに始まっていた。鋭いスタッカート(スタカート)のリズムに私の心臓は呼応するごとく、心地よいリズムであった。バイオリンとピアノの演奏やギターとバンドネオンの演奏が続いた。そのうち、そのリズムに合わせて男女の踊り子のタンゴの踊りが続いた。時々、女は倒れるのではないかと思うほど、弓なりに体全体を反らし、時には片方の足を頭より高く上げていた。

 現地の案内人によると、タンゴのリズムの起源は諸説あるが、アフリカ黒人のサントンベ、ヨーロッパのハバネラ、ブラジルやキューバのリズムが、現地の音楽と影響しあい、ミロンガが生まれ、タンゴへと発展したのだろうと言う。今のアルゼンチンタンゴはバンドネオンの、あのリズムにより成立していると私は思った。

【“南米のニース” マル・デル・プラータ】

 翌日、1泊2日の予定で南米のニース、海と賭博の高級避暑地といわれるマル・デル・プラータに向かった。バスで数時間かかるので、バスの運転手は2人で交代して運転するという。運転席の上には、ベッドのある仮眠室があった。

 5、6時間バスが走ると海岸線が見え、これに続いて10階建てくらいの高級そうな数軒のホテル群が見えてきた。添乗員は「このホテルにはカジノがあるので楽しんで下さい。ただ、かけるお金は50ドルに制限します。あるグループで、多額の金をつぎ込んで、あとの旅行に支障をきたした人がいました。50ドル以上は絶対に使わないで下さい」という注意があった。その日泊まるホテルはリゾウート・ホテルで各部屋ともゴージャスで開放感があった。夕食後、各自50米ドルを現地の通貨ペソに変え、カジノに行った。先ず、ペソを各自,色の異なるチップに交換した。3つ大きなルーレットと縦に1から36まで数字が書かれたテーブルがあった。私はルーレットで遊ぶのは初めてなので、ほかの人のやり方を見ていた。2人の運転手は手慣れた手つきで、テーブルの3、4カ所の番号のところにチップを置いた。ホイール(回転板)が回って、ボールの入った番号が“当たり”で、その番号のみにチップが配当され、番号の外れたチップは全部回収される。ルールは簡単だが、チップをどの番号にかけたらよいか私には分からなかった。運転手の置いたチップの番号はよく“当たった。”

 そこで私は,ためしに運転手と同じ番号にチップを置いてみた。3、4カ所かけると1つ、必ず“当たる”のである。気を良くした私は、この方法を続けた。私の手持ちのチップは次第に増えていった。そのうち、これが当たらなくなってきた。そこで方針を変えて、私の生年月日、1926、5、23の19、26、5、23の数字にかけてみた。これが、またよく当たった。チップを目で数えると120ドルになっていた。そこで100ドル分は取って置き、残りの20ドルのチップが無くなるまで遊んだ。ものの2、30分でチップは無くなった。ここが潮時と思い、ルーレットは中止し、100ドル分のチップを現金に変えた。初めてのルーレットにしては完勝であった。

 この100ドルはブエノスアイレスを去る前に、家内のお土産にクロコダイルのハンドバッグを買った(クロコダイルが本物か偽物かは分からなかったが……)。

http://www.bunnotvl.com/mardelplata.html     

http://www.hissho-onlinecasino.com/rule/rouletterule.html より